花は折りたし梢は高し

いつものことだが、最初の記事に記した通り、ここは日記として利用しているから、どんな事でも書きたい事があれば書く。愚痴だらけだったり駄文だったりして読み手としては読みづらいかも知れないがご了承願いたい。

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一体何故こうも親というのは勉強の事について大概無頓着なのだろうか。私に対して意見があっても、的を射ない時は甚だ何も解っていないように見当違いな事を言う。その非常さに少しくらい気付くとか、もしくは自分の言っている内容が可笑しい可能性を踏まえているならばまだ許せるが、こういう時に人が発している言葉に伴うその人の考えは、その人にとって絶対正確なものとなってしまっているものだから許し難い。こういう時は賛成出来ない気持ちを軽く示す程度にして無視するか、少し疲れるが自分の意見を相手が反論出来ないくらいの広範囲の理論で叩き付けるしかない。そうしないと相手はますます自分の意見が正しいと決めつけるようになってしまう。

何故勉強関係の事情が解らないのかはこちらは知っている。もう高校卒業してから40年弱も経っているのだから忘れて当然だし内容にも時代的な差がある。

しかし度々思うが何故こうも非常識で平気でいられるものだろうか。何処に確信があるというのか。

その癖に、要らぬ注意をする。

私には全く意味がない。理解の浅い発言は不快でしかない。最大の勉強の邪魔だ。

私の家庭では、実際のそういった類の発言は非常に稀だが、何日も何週間も間が開いていたとしても私は段々に許せなくなってくる。何故こんなにも人を理解出来ないのか、何故自分の事にしか考えが向かないのか。

だが結局答えは簡単だ。

本当に解決させたいと思うなら、視点を変えられない考えなど無い。つまりは家族であれ何であれ他人は他人だったという事だ。この場合、同じような生活を共にしていない限りは相手の気持ちは推定するのが限度だ。これなら説明はつく。だがそれと同時に私も何だ彼だ言って、親の気持ちなどはどう頑張っても理解出来ないことになる。特に自分の生まれる前の親の経験による思考の基盤など理解の仕様がない。

一つだけ言えそうなのは、無闇矢鱈に自分の意見を絶対であるように表現してはならないという事だけだ。

非常につまらなくなってきた。

今の私は明らかに悲観的で、思考方法もいつもとは違うような気がする。良くなっているのならいいが残念ながら大抵の物事に対しては悪影響だ。

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よく脳について、

左脳は論理的、右脳は直感的、芸術的

左脳は楽観的、右脳は悲観的

左脳は低速脳、右脳は高速脳

だとか言われるが私はこれらのことについて非常に興味がある。

私は予想する限りでは一日のほとんどを左脳メインで使っていると思う。大して論理的思考はしていない気もするが、なんといってもこの”今の私”は大抵は究極の楽観脳の持ち主だと思える。また、非常に低速だと思う。

よく計算の、特に暗算の速い人がいるが、私の場合、精度重視で暗算なんかやらされると最悪と言いたくなるような時間がかかることがある。

最近ではフラッシュ暗算が有名になってきたが、あんなのはもはや習得したいとさえ思わない。雲の上のさらに上の未知の宇宙のような話だ。

右脳の話で凄いのは他にも沢山ある。フォトグラフィックメモリーだとか何とかいうものを使う人は一瞬だけ文章を見ただけで全部記憶だけされていて、しかしまだ読んでいないから内容は知らない、だけど書き出せる、なんて芸当ができるというし、違う記憶回路をもつある人はたった一人で、目隠しをして、数十人を相手に声だけで将棋をさして全員に勝つなんてことができたという。

はっきりいって超がつく程羨ましいし、できるものなら右脳の素晴らしい伝達回路とやらを使ってみたい。右脳は聞くところによれば左脳が処理出来ない事柄を処理するために、それを瞬時にまとめ、処理出来る新しい回路を創ってしまうらしい。脳の本当に得意な処理と言われるイメージ処理はここで行われているようだ。全くこれでは何のために左脳がゆっくり処理しているのか解らない。もしかして予想外の物事を落ち着いて捉えるときなどにゆっくりした処理が必要なのだろうか。

右脳をただ単に使うようにするという方法はいくつか広まってきた。左手を器用に使うとか、見たものを上下を逆に描く逆絵とか。特に逆絵なんかは良いかも知れない。とは思うのだが全く思うように描けない。これが描ける人は余程イメージ記憶にたけている人かも知れない。フォトグラフィックメモリーもきっとその人ならできることだろう。

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