今、何をしていますか

4月に入った。

もしかしたら、既に気合いを入れて勉強に臨んでいるべきなのかも知れない。

でも、私は……。

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……何がいつも通りなんだ。

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今……。何をしているんだろう……。

なんか……自分がやりたいことを捨てているような気がする……。

なんだろう……この気持ち……。

外見はそのままでも……中身が空っぽであるかのようだ……。

まるで、人形のようだ……。

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以前、確かこうなる前は、何か生き甲斐のようなものを持っていた。

確か、それは、常に探求すること……。

いつしか探求の対象が電気電子系になったりコンピュータになったりしたが、

それは多かれ少なかれ周りの環境がそうさせたものである。

例えば幼い頃は図鑑ばかりあって、植物の物知りになっていた。

今でもわずかにその頃の知識は残っている。

小学生になると、高校~大学あたりの物理の本をもらって、また物知りになっていたときがあった。

小学生の高学年になると、種々のパソコン書などを親が多く買うようになって、またそれについて物知りになっていた。

その後、そのパソコンの、思い通りになりやすいという性質から、どんなことができるのかという遊びが始まって、PCに関してはそれがただ少し発展しただけで現在に至る。

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なんでこんなものが生き甲斐になるのか。

探求心を失った今、初めてこのことに疑問を持った。

そもそも、人は何をするために、何を求めて、動いているのか……。

そもそも、生き甲斐って何だ。

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探求心とは、私にとっては芋づる式に次から次へと深くへと行動させようとするものという感覚である。

ではなぜそういった、行動から行動へと移り変わっていくのか……。

山を登る人が、その山を登る理由を問われて、そこに山があるからだと答えることと同じだというような話で終わらせたくはない。

いや結果的には似たような物だとは思うが、もう少し掘り下げてみたい。

思えば、「欲求」という感覚は実に謎の多い物である。

殆ど原因も何もなさそうなときに突然沸くこともある。

もしこの原理が解明できるなら、機械ですら人のように行動を起こせるだろう。

行動の移り変わりに関する欲求という感覚は、当然細分できるだろう。

例えば、その中の一つとして、今の私に思いつくのは、記憶に基づく欲求というものだ。

「こうなるものである」といった情報を含んだ記憶を「安全な記憶」圏に持っていると、それに合わせることで「安全」に類する何かの感覚と引き合わされて、それに合わせることに好感を持つのではないかと思う。もしかしたらサブリミナル映像もそんな感覚に近いのかも知れない。逆にトラウマのように、「危険な記憶」圏に持っていると、それに合致しないように回避行動に移るべきだと感じ、それができないと思考がループなどして進まなくなり、種々の機能が低下する、といった仕組みなのかも知れないと私は考えた。

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ところで、私は過去の記憶によって「探求するが良し」とされた覚えはない。

だが、物心ついたばかりのころの記憶にはこんなものがある。

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母:「じぃじはね、博士なんだよ。」

Mul:「ハカセ……?」

母:「な~んでも知ってるの。とっても物知りで、どんなことを聞いても答えてくれるのよ。」

Mul:(おかあさんうれしそうだな……)

Mul:「へえーっ。じゃあぼくもハカセになりたい。」

母:「きっとなれるよ。」

Mul:「じゃあおとなになったらハカセになるね。」

Mul:(なんでもしってるハカセになるんだ)

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実はこんなでも印象の強い記憶で、3~4歳くらいだが話してたときの周りの状況さえ記憶に残るほどである。

少し興味深いが、探求心にそこまで影響したと考えることでもないかも知れない。

実際、今の私が博士になろうとしているかと言うと、そうでもない。

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今まで多くの人を見てきたが、話したうちのいくらかは、特に目的はないしやりたいこともない、何しよう、暇、といった感覚を一時的にではなくずっと持ち越している人もいた。

今の私はそれに限りなく近づいているが、それまでそんなことが殆ど無かった私にとってこれは大きな苦痛となっている。

ずっとこの感覚を持ち越している人は辛いのだろうか。それとも何も感じないのだろうか。

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最近、脳死に関する話題をTVで見ることがあった。

脳について強い関心を持っている私だが、環境さえ整えれば脳が応答しなくても心臓はずっと動かし続けられるということを初めて知ったときは少なからず驚いたものだ。

いつか塾で読んだ文章にあったことを持ち出すが、過去にとんでもない実験をした人が居て、なんでも、生きた猿の頭を割って脳を取り出し、それに栄養供給をしながら脳波を測って、体が無くても脳は活動するのかについて調べたというお話があった。結果、活動はし続けている、ということだった。

これらのことから、時々、あることを思うことがある。

動くことも止まることも、それだけならば、簡単にできてしまうのだ、と。

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ここに私という人間がいる。ただの人間であるだけならば私である必要はない。

中身が何であるかということが重要なのは言うまでもない。

ならば、私の中身とは何か。

探求心とは、中身になりえるだろうか。いや、これ一つではなり得ない。

では、何が私を人間にするのか。

心、というのは実に奥が深く、難しく、身動きがとれない。

窮屈で、しかしそれを救うのは、元を辿ればまた心の働きである。

私も、そろそろ人間性というものをそれとなくでも知っておかなければならないと感じた。

そして、私自身も今のままでいてはいけない。自己からの変化は難しいが、何も一人だけで努力しなくても良い方法もあるだろう。他力本願では何も起こらないが、せめて一人の人としての感覚は、確立させておきたいと思う。

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端から見れば、私は夢も持っていていいなと思われるかも知れない部分がある。

ところが「今」の自分とそれとは少し距離が離れているのである。

だから、実際には夢が見えなくなっているという感じなのかも知れない。

もし夢に向かって進める兆しが見えてくれば、それはまた私を元気づけてくれるものとなるだろう。
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