やっと治ってきた…

 漸く体は治ってきました。なんとか餅にありつくことができました。よかった。

でもまだなんとなく腹には違和感が残ってます。


 元日付近はやっぱり凄いですね……。大晦日から元日までに関する友人の日記がざっと四十件あるとは……。私のところくらいの量では読みきれましたが、友人が百人以上居られる方は一体どうなっていたのでしょう。



 新年には何か目標を挙げることが多いですよね。これは日記を見ていても良く見かけます。私もはっきりとはしなくとも目標を挙げることは多いです。

 私と同年代の方は大学一年や二年ですが、特に一年の方は環境の変化と自分の歩みを振り返る人が多いですね。


 私も一年なので一年側の傾向が強いです。恐らくこの日記もその方向で進むでしょう。

 振り返り方には何通りかありますね。良くあるのは、

・受験とその後の大学生活
・始まってから今までの大学生活と部活
・部活とバイト
・バイトと遊びまたは人付き合い

などでしょうか。私も多分そんなことを書くのでしょう。


 受験についての振り返り方の中にも、まるで異なる数種類のものがあるようですね。例えば

・二度とできないくらい全力を出して理想を現実にした
・力を出すことができなかったが屈辱に耐えた
・受験などそもそもあまり考えなかった
・勘違いしていたが気付かなかった

の各人では自身に対する考え方や誇り方、自信の持ち方、その他基本になる精神構造が大分違うように見えます。

私の妄想では、これらの数種類にはさらに誘因を異にするまた数種類の分類がありますが、いずれにせよ十代終わり前後には大きな境目があったと思います。



 私は去年で二十歳を迎えたわけですが、別段成長したとは思いません。多分私が考えているような成長というのはもう無いのでしょう。

よく友人からも二十歳はこんなものじゃないはずだったというようなことを聞くような気がしますが私もそれには同感です。


 私が考えられることは、こんな事をすれば自分は駄目なんだとか、こんな事だけは確実にできるんだとかいう細かな修正案とも言えるような考え方を強く意識すること。逆に今までの「勘」を少し弱め、その最低限の修正案を裏切らない範囲で新しい行動に出ることです。

多分この時期はそういう行動方法に移り変わっていく時期なのではないかと、勝手に思っています。


 そしてもう一つ思ったことがあります。私は嫌いなものを無くして行っているのではないかということです。中高時代から色々と嫌いなものを無くしてはいましたが、そろそろ根本的な部分が崩れる頃合いです。

信じる構造とは不思議なものです。これは友人との話を思い出しながら書いていますが、人を仲間だと思う時、私は私の考えている中の相手の考えの一部を受け入れる許可をしています(要文章推敲…意味不明…)。

この「一部」の範囲内に、自分の嫌っていたものが関連してくることは全く珍しくないものです。そのときそれをどう処理するか。

受け入れる時は自分の嫌うという意志を或る程度修正します。受け入れないときは部分的に弾く、つまり相手への信用、受け入れる範囲を狭める代わりに自分の意志は守ります。

時々でも受け入れていれば、全てを守ったままということはまずないものです。しかし私には二つだけどうしても消えないトラウマ……いやただの記憶があり、それに近いものはなかなか受け入れられませんが、もしかしたらこれは私の性質として残ってしまうものかも知れません。



 さてそろそろ意味不明なことを書きすぎたので本題に戻ります。私は何をするにも遅すぎる遅すぎると良く各所で嘆いているのでこれを修正したい。これが今年の目標になるでしょう。

そのためには物事の分離、より多くの視点から見た分離が必要になるような気がしています。物事を分離して、恐れを感じないように全体を把握することと実行単位を減らすこと、終わったこととやることを把握することです。

しかし本来なら物事の分離より一本化の方がわかりやすいですよね。でも私はどうやら分離したがる性格を持っているようです。分離の仕方がわかっているとより良く纏まるような気がしているのかも知れません。



 今日は意味不明なことを書きやすい日のようですね…。

明日は武運の神が祀られている神社へやっとの初詣に行こうと思います。転科試験のこともあるし、それ以外でも期待多き一年。良い年でありますように。皆さんにとっても、良い年でありますように。

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