逃避衝動

時々、全てを捨てて何もかも捨てて逃げ去りたくならないだろうか。
心身のどちらかが不調になれば私は良くこの衝動に駆られる。

現在ごく軽度の躁鬱状態ではあるが、人前では殆ど抑え込むことができている。
恐らくこれが一般に多くの人が言う、鬱状態。昔経験した絶望より軽度なものだが、しかし厄介極まりなくはある。
最近訳あって一度に幾つかの物事を深く考える機会があり、それによって急に調子がおかしくなってしまった。
自分で自分が”普通でない行動”をとることができるようになってしまっているのがわかるから、最近は、より意識して自身の行動範囲に規制をかけている。

今の私は、動かない方が良い。
だが、いつまでこうしていればいいのだろうか。
…不調?いや、ただの言い訳に過ぎない。
恐らく逃避衝動に理由が必要なのだろう。それが見つからないが故の現象。
と、自分を斬ったところで原因は断ち切れない。

自身に時間を与えれば解決されるかと思いきやそんなことはない。
これが精神の引きこもりが永久に脱せなくなる絡繰り。

人間の弱さは面白い。独りで己の状況を変えることさえ拷問に近い。

幾つだ?問題の数を数えてみようか。
分類にして3、4、5、…最低5つは同時思考の対象になって気を狂わせている。
各分類ごとに更に4分類ほど内包している。

1つは学校
2つも学校
3つは人間
4つは技術
5つは家族
6つは展望

元々は何か考えていた。だが片端から問題点を洗い上げて分析中に突然何も考えられなくなった。だが

助けて欲しい

とは誰も言わないから、私も言えない。

気が紛れたら、再び振り出しに戻る。そして繰り返される。
この繰り返しを脱出、逃避する方法を、誰か知っているか。

近年私は急速に誇りを失っていっていた。
それが始まる前はいつになるのかといえば、15歳まで遡らなければならない。
それまでは絶対誰にも負けないものを信じることができていた。
唯一前途洋々に見えた専門領域、歳と学校の条件にしては私は自身を信じることができた。

だがそれも高校入学後に外圧に屈して停止してしまった。私自身の力不足だろうか。
さらに追い打ちをかけるように…停止の理由に不足ない物事が多くあった。
理由が理由を作り始めた。私は私自身の停止を認識し、それを理由に停止を不可抗力と捉えた。

停止は停止を呼び始めた。私は自ら念入りに仕掛けてあった罠にかかってしまった。
かつて私が全力で否定していた物事が私になり、私が私に全力で否定された。
全てなきものとして、自己暗示の繰り返しにかかった。
私の力の半分以上は消滅し、記憶からも消え、今でも呼び出せないものになってしまった。

最終的に苦しみと悲しみの中でぎりぎりのところで生きることだけを貫いた暁に得たものは絶望だった。
事は終わった。代わりに全てが終わった、という暗示にかかった。

殆ど何もできなくなった私だが、それでもかつて私が信じた力は、範囲を限定すれば唯一のものとして通用した。
そして愚かなことに以前以上に蘇ることを信じ始め、全力で復旧に努め、1年経つ間に2年前の力の半分程度まで復旧した。

しかし、気付いてしまった。私が力を失い続けた数年間を、本来私が希望したように生きた人間が当時の私の歳にして遥か上の力をつけていることに。気付いてしまった。私がこの力に関して悩んでいる間に全く別のことを成し遂げている人間がいることに。気付いてしまった。既に多くの犠牲を払って環境が取り返しが付かなくなっていることに。気付いてしまった。私が既に再び自らの罠にはまってしまっていたことに。気付いてしまった。既にこの罠を脱する手段の候補が尽きてきていることに。気付いてしまった。私は既に充分に壊れてしまっていることに。気付いてしまった。仮に手段があっても既に私は実行できない状態になっていることに。

だから、せめて、誰か、…誰か、

…そしてまた私は独力では何もできないのか

理解者が、

…私の誰かは期待していない

いることを、

…止まれ。我が思考。

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