幾つかの話

今日は3つ話をしよう。



1つ目は、とりあえず若い人らしい話をたまにはしてみようかと思う。

Devil May Cry 4がPC版も用意されるらしい。
http://www.capcom.co.jp/devil4/pc_main.html
結構な性能のPCが必要だが、体験版でも相当遊べたので興味のある人はやってみると良いかもしれない。
個人的には、非常に綺麗なCGに正直言って久しぶりに驚いた。
PCでもここまでできたのかと。DirectX9世代では大したことはできないのかなと思っていたけどそんなことはないことが良くわかった。制作会社の振るう力量次第で結構差が出る。モンスターハンターPC版とかDevil May Cry 3は互換性重視でグラフィックの質にそこまでこだわっていない気がするが、4は違う。
久しぶりに3D関係の独学に戻りたい気分にさえなった。
今のPCは当時の独学時代のPCより数十倍どころでなく高速だからきっとできることが違うはず…。PRビデオ制作なんてもう今からすれば大昔の話になってしまった。

さて2つ目の話。

今日は兄が来た。
最近では兄が来ることは久しぶりで珍しいことだというような、とにかく少し違う感覚に変わってきている。
以前は全力で憎んだ存在だったが、それももう昔のことなのかも知れない。
当時は一生憎み続けるだろうと思っていたから、何とも思わないで済む日がこうして来ることには何となく違和感さえある。
結局の所、私が何かに対して抱く感覚などは私自身の状態に起因する部分が大きかったということでもある。
自身の状態による感覚の変化へは将来も対応しきれないことは多くありそうだが、これは覚悟しておかなければならないだろうと考えている。

さてその兄が持ってきた話に海外旅行の件があった。
会社でとれた旅行だが我々も行こうと思えばついて行けるという話で、思いつきで持ちかけたものらしい。
私はともかく母が非常に喜んで是非行きたいと言った。
私も海外には生まれてこの方一度も行ったことはないので興味はあった。

この暗すぎる家庭に光が差し込むことは珍しい。
大抵は、何か新しいことを私が起こさなければならないが、外部から来る話は余計珍しい。
勿論、この家は一見したところでは、そこまで暗くはない。
真の暗さは、誰がどんなに努力してもこれ以上明るくならないところにある。

この家の家族構成は3人。
4年前に祖母が亡くなり、一人になった祖父は、今でも気力が弱く、幻覚などの精神異常状態が回復したのはつい最近のことである。
同年に父を亡くした母と私は、祖父を一人にしないためにこの祖父の家に一緒に住むことになった。
祖母が亡くなったときに、この先どうするかを考えていたのは父だったのだが、父まで急にいなくなって、様々な計画やら将来やらが見えなくなった。
それからは母も気力が弱かった。夜に母の泣き声を聞く回数が減ってきたのはやはり最近のことである。
私も最近まで気力が弱く、特に気を狂わせそうになったり、生きるか死ぬかについてしか考えられないような時期を逃避や重い思考、さらには友達に負担をかけてまで漸く乗り切ったのは最近のことであった。

さて旅行の話だが、祖父の意見を聞いたところ、案の定行く気力がないと答えたらしい。
さらに日程については、私にとって不確定事項が多すぎる時期だった。
私は、母が望んでいる旅行であることが良くわかったため、家はなんとかなるから最悪の場合でもとにかく母だけでも旅行へ行ってきたらいいだろうと提案した。
だが母は大きな溜息をつき、その後しばらくして、この話は断ってきたと言った。
私はそんなに人のせいにして諦めることでもない、自分の望むようにすれば良いのにと思って言ったが、そうではない、皆と行けないならいい、と返された。
恐らくこの家で一番旅行に行きたがっているのは母である。母も旅行は30年ぶりくらいになるらしいので、本当に行きたいのに今までチャンスがなかったという話だ。
しかし私が動けても不安を抱えてては話にならないかも知れないし、祖父を無理矢理動かすのもかなり厳しい話である。
結局この暗すぎる家庭には、今回も光が差し込むことはなかった。

勿論暗すぎるからといって、全員が今にも死にそうな状況というわけでは決してない。
各自、自分自身にできることというのがある。
一番危ないのは祖父だが、今のところはなんとか散歩などをして日々を生きている。
母にはバイオリンがある。演奏関係ではやることもあり仲間もいるようだから、心配はなさそうだ。
一番安定しているのは私と言うことになる。だが将来の安定に対する保証は一番無いかも知れない。別に危ない橋を渡るというわけではなく、自らどの道を切り開くかわからないという点で。母には羨ましい話のようだが。



さて3つ目の話。

それはこの記録について。ふと書いてみたくなった。
私がネット上、あるいはコンピュータのデータ上に日記を書き始めたのは6年前の夏である。
さらに言うと、私が或る程度本格的にパソコンを使い始めたのは小学3年生の終わり頃、今から11年程度前であり、そのときからしばらくはVisual BasicというMicrosoftのBasic言語によりプログラミングをしたり、他のフリーソフトを雑誌から得て遊んだりしていた。当時は週に一度30分だけという使用限度を守ることを親から言われて守っていた。当時は他に電子工作や化学っぽい遊びや実験や外遊びなど、小学生らしい遊びをしていた時間の方が長い。中学に入るとパソコン使用時間制限も無くなり、受験も終わったことでいよいよ本当に本格的にパソコンを使い始める。中学1年のときに、まだ学校の図書室に入っていなかったCGの本を注文して入れて貰って、Shadeに触れる。Shadeを知ったのはその時よりも前であり、小学生のときに触れていたVisual Basic関連の本に付属していた葉書で申し込んだ無料のPC雑誌に載っていたものだった。中学1年の時は主にこのCGとプログラミングに触れる日々だった。この頃やっと電話回線でネットに接続することが許され、雑誌以外でオンラインソフトに触れる機会が多くなった。中学2年になると、エミュレータに触れたりMIDI制作をするようになった。ブラインドタッチがまともな速度になるのも、初めてのメールアドレスを取得するのもこの時だった。中学3年になると、友達からの年賀状にホームページアドレスなどが載っているのに気がついたことがきっかけで自分のホームページも作るかという気になった。初期にテストページを短時間公開するが、直後からVB Wander Worldが始まる。今でもそのサイトは残っているが、更新をやめてしまったため一部の検索エンジンからは消えてしまい、HylosのLinksから辿らなければ見つけられないかも知れない。このページはVBと名付けられている通り、Visual Basicで作ったプログラムを発表するページとして立ち上げられていた。初期にはチャットや掲示板が活発で、ソフトウェアのページも4種類程度の拙作ソフトが並べられていた。後に、他の友達のページでレンタル日記を用いた日記が書かれるようになったので、私の所でも手書きHTMLによる日記を書き始めた。しかしあまりに効率が悪いので、私の所でも他サーバーをもう一つ借りてCGIを設置、そこで日記を継続した。このCGIは自作ではないが、改造を多少行っていた。この頃の日記は、まだ私のネット上での言葉遣いが口語に近い頃のもので、言葉遣いそのものが安定していない。また、内容も完全に日記としてのものであり、感情主体で書かれている。この日記は現在でもVB Wander World本家やHylosのCategoriesから見ることができるが、この頃の日記は或る事件をきっかけに終焉を迎える。日記の最後はその事件について綴っている。

或る事件の誘因の一つに、連絡がとれなかったことというのがあったため、それまで毛嫌いしていた携帯電話というものを私は高校三年になって初めて手にすることになる。私が携帯電話が嫌いだったのは、人々が皆携帯電話を見るようになってから、人間味が減ったように見えていたことと、携帯電話の電波が体に悪いのではないかと恐れていたためだった。
しかし一度手にしてしまうと、その性能の高さから、すぐさま使いこなすことに興味が沸いた。
当時まだ文字の打ち込みが全く思うようにいかなかったことがきっかけで、また、これを使えば電車に乗っている時間などで日記などを書けるかも知れないと思い、ブログを作ることを思い立った。今から3年前のことだった。

以降、大学に入るまでMulgray’s Domainというブログの更新を行った。
このブログは携帯電話から書き込むことが多かった。文章を合計2時間くらいかけて継ぎ足して長文にして載せていた。載せる方法はメールポストだった。

この再開された日記から、日記自体の性質を変えた。
個人的にはこれを日記というよりは、記録と呼んでいる。
超長文を書くことがあったのもこのためである。これは日記よりも広い概念で書いていた。
それは私の生きていることの証明……私が例えどんな状況に陥ろうとも、誰かがこの文章を発見して、私という人間がいたこと、どんな考えをもって行動していたかということを知ることができることが、目的だった。
何の役にも立たないかも知れないが、とにかく、生きようとしていた、活動しようとしていた人間がいたことが私以外の一人にでも確認できる可能性があるということが、この時の私には面白かった。
だから、私はこの時、記録を始めた。
私の考え、私の行動、私の作った物、その他、私が記録しておきたいもの、私自身がどうであれ、とにかく時間に負けずに残るものが、私の心の支えの一つになったのかも知れない。

しかし受験終焉期になると、いよいよ精神状態は崩壊し、記録を続けることも連絡をとることもできず、メールのやりとりも断ち切ってしまった。
最後の最後に私からの絶望に満ちた連絡を受けたのは限られた人物だけだった。

全てが終わった頃には、過去に抱いていた考えの記憶こそあれ、それはただの記憶でしかなかった。
だから、仕方がないから、とにかく記憶に従って、Hylosというサイトを立ち上げた。
そして、そのサイトで今、記録は引き継がれている。

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