8/17 実際は文面よりも躁鬱有り

13日から16日にかけては法定点検のため学校に居ることはできなかった。16日には兄の誕生日会があった。
この期間は他大学院の要項などを見た。TOEFLの敷居の高さに辟易した。
そんな中、小学生時代の私の願いを一つ叶えてやることができた。そんな日々だった。


さて私は現在、大げさに言わずとも人生に関わるような危機的な状況であると認識している。
せめて、何が危機的なのか具体的に話せる相手が居れば良いのだが。
私には現在、相談相手が誰一人として居ない。

夜に眠れなくなるのも当然である。
単純に生活リズムの崩れというよりは精神病に近い状態なのだと思う。しかしそれならば、これでも今の状況は少なくとも去年よりは大分改善しているのだろう。

私が話したいと思う誰かと話が出来ないものだろうか。そして私が話すべき相手(私が納得できる答えを自分から導かせてくれるか、与えてくれるか、そのどちらでも良い)と話せる状況になんとかならないものだろうか。


09:00-10:30
以前私の意見の至らない部分に差し掛かった本について、何とかして自分の意見を導き出して記録することに時間を少し費やした。それからまた自然言語処理についての本を読み始めた。

10:40-12:10
元々は研究室調査のつもりで作ったこの時間だが、困ったことに私は研究室以前の問題で、この広範囲の分野について知らないことが多すぎるのである。元々、授業というのは概要を学ぶことができれば良いくらいのものなので独学の方向性が最近まではっきりしていなかった私が今このような状態になっていることは不思議なことではない。その影響があって、今日はこの時間は授業でも扱われた内容のごく一部についてより理解を深める時間となった。これも一つの調査だが、繰り返すが本来は研究室調べに取りかかりたいところである。そのせいで、今日のこの時間の利益はかなりあったと言えるはずなのにも拘わらず、気持ちは釈然としない。次回以降は知らないことがあってもできる限りこの時間は研究室調査に充てたい。

12:10-12:30
昼食

12:30-14:00
本来は英語を勉強するはずの時間だが、今日はこの時間は言語処理研究室を訪ねた。運良く先生がいらっしゃったので、話込むことを試みた。

こちらの先生は私の話を非常に良く聞いて下さる先生である。私は今の悩みのごく一部を正直にそのまま話した。但し恐らく悩みとしては伝わらなかっただろう。現在の進捗のようなものを伝えることができたのだろうと思う。私の意見には基本的に賛成して頂けて、先生からの話も色々聞かせて頂くことができた。サポートベクターマシンの概念についても話して頂けて、それを聞く限りでもやはりわかりやすくて話しやすくて良いと思った。この先生は転科の際にもお世話になったこともあり、また二年の時にも人工知能関係の糸口を教えて頂いたこともあって、私の目標については大分伝わっていると思う。次回訪ねる時には、自分の研究目的について文書に示して行くことになった。早速関連研究についてなど意見を頂けそうである。

14:10-15:40
学会誌を読む時間だが、今日は特筆に値するものは無かった。範囲が広い分、興味の沸かない分野も相当にある。今回はたまたまそこにあたっただけである。強いて言えば応用分野の一つについて動向が分かったことと、UMLの各図間の関連性に纏まりがないことの理由が分かったことくらいか。

15:50-17:20
若干の時間で行ったこととしては、ネットが使える環境下ではノートPC上のLinuxではなく家のメインマシン上のLinuxを呼び出して使えるようにした程度だった。
この時間は主に、自分の研究関係について文章や図を書くために費やした。

17:30-19:00
前時間の作業がどうしても気にかかっている間に、今日も嵐先生がいらっしゃった。
いつも通り、人工知能の勉強が進んでいるかどうかを聞かれたので私もこれまたいつも通り現在取り組んでいることを話した。若干既視感のある展開になり、この分野は広範囲に及ぶから絞らないと、何でもかんでもやるのは難しいと言われ、私も今興味のあることを話した。

今日は遺伝的アルゴリズムの話を最初にし、ここではGAは使うだけであってそれ自体の研究はないということを聞いた。そして私は自然言語処理について現在盾としている本を開きながら、自分が目指すものについて伝えた。しかし先生からは案の定と言うべきかそれ以上に反対意見を頂いた。本を盾にしていなかったら私は滅んでいたかも知れない。具体的には、まず「それはここ(この大学)ではやってない、できない」と言われ、そして「意味が無い」という意味の意見を幾つかの視点から頂いた。さらに付け加えて、関連研究やこの学校の関連研究室に対する欠点を話された。

この状況で重要なのは只一つ、私の目的が伝わったことだろうと思う。私はこの研究室の先輩の跡継ぎではないと告げたことにもなろう。

今日二つの研究室の先生とそれぞれ話して、他研究室の研究の欠点や限界をそれぞれの先生から聞くことになった。

特に今日一番の問題となったのは、今のところ教授のうちの一人だけとはいえ、存在意義の全否定のような意見を受けたことだろう。
意味がない?ならば、私はどうすればいいのか。
研究になるだろうと考えて選んだ道が、意味がないからそれは自己満にしてくれということだろうか。これを言ったら世の中のどれ程多くの人間が滅ぶだろうか。もっと「無意味」な研究をしている人もいくらでもいるのではないだろうか。

重い課題だが、誰もが(?)納得できる目的を述べられるようにしなければならない。(?)

一つ知ることができたのは、先達として立派に研究者がいる研究テーマでも臆することなく否定的意見を述べることができるものであるということである。当たり前と言えば当たり前なのだが、殊に自分の関わろうとしているテーマについては気付きにくい。一つの重要な視点である。

21:00

http://kusoshigoto.blog121.fc2.com/blog-entry-278.html

>日本の場合は行き過ぎた自己満レベルの完璧主義も生産性の低下に貢献してるはず。
>ウエブデザインで1ピクセルのズレが許せないwとか、DTPで1ミリのズレも認めない、とか。
>客もそこまで求めてるわけではないのに、何事も完璧じゃないと気が済まないって人はかなり多いと思う。
>俺みたいに自己満は家でだけやってろよw。


ごめんなさいごめんなさい。僕も自己満は状況を見て使い分けるようにします。というか僕だけじゃなかったのか。最近は寧ろ生産性重視の人間が増えてきているかと思っていたのだが。



>「俺が休めないのにお前が休むのは許せない」っていう「みんなで休まず、みんなで不幸になろうキャンペーン」実施中


これには考えさせられる。
私の記録などにおける発想にも時々、「自分はこうである」以外に「他人はこうでなければならない」といった道連れ発想とでも言うべきものまで現われてしまっているかも知れないのだが、それにも似ているのではないか。

また、私は自分が何かを休めない状況だったとしてもそれを休んでいる他人に出席を強要することはないつもりだが、しかしこれは身近な話に換算するとこんな話にも近いかもしれない。例えば、自分が休まず出席している授業を殆ど欠席している他人が自分の功績(または獲得物)でその単位をまんまと乗り切った場合。その他人にはどんな事情や考えがあるかは知らないが、このような場合に私はわずかに一瞬だが良い気持ちがしない経験はあった。ただそれも私の場合は特に気にならない程度で、ましてや許せないとまで思ったことはない。

恐らく、許せないという人は、誰かから助けてもらったことのない人なのだろう。もしくは誰かを助けてあげたことのない人なのかも知れない。

もし自分が誰かを助けたことがあれば、少なくとも助けてあげた人からは自分の休みを認めてもらえるだろうし、誰かが休む時でも、助けてあげようと思うかも知れない。

要はそういう優しさに欠けてるのだと思う。日本人にはもっと愛が必要だ。




64回目の終戦記念日が15日だったわけだが、ここ最近NHKの深夜番組では連日、戦争関連の証言特集を放送していた。
それを見て最も印象的だったのは「本当に人の命を粗末にした国だった、日本は。」という言葉だった。
勿論戦争の話そのものもとても印象的だったが、それ以上にその言葉は記憶に残った。

戦争における様々な作戦や行動、そして装備に至るまで、日本と他国、例えば米国では決定的な差があると感じた。
勿論、日本の物資の量における差や、戦争全体の流れからきている意志などは決して無視出来ないのだが、それにしても捨て身に過ぎるところがあるだろうと思う。当然、兵士一人一人は辛い思いもしているし、自分の意志で命令に逆らえなかったのもわかる。

ところで終戦後、基本的に戦争なんて辛い時代は繰り返さないようにしよう、原爆の悲劇も今後は無くそう、これからは新しい時代の明るい人々の時代を作ろうとなったのだろうと思う。きっとその後の子供は、以前より優しくまたは自由に育てられたのではないか。

そして現在。関連があるかどうかは私には示せないが、日本は常識を無くし、人々の間でコミュニケーションをとらなくなり、他人が他人の子供を育てることなど許されもしないような国になった。おまけに挨拶もできなくなり、言葉遣いも悪くなり心遣いも出来なくなり、遺産には傷を付け、それが悪いことだと思ってもいない。要は先のことを考える力も、さらには生きる力も無くなってきているのである。

これまた関連があるかどうかはわからないが、オープンキャンパスでこの大学に来る親子などは確実にこう質問するようだ。「ここに入れば就職できますか。(安定した生活できますか。)」

特殊な場合、つまりある意味では、健康で文化的な最低限度の生活には程遠いようにも見えなくはない。勿論彼らはそんな風に言われるつもりでそう言った訳ではないのだろうけれども。

こういう見方もある。現代人は現実をゲームのように捉え、選択肢が出てこなくなったら怒るのだと。

終戦後、日本人は何かを忘れ始めている。

個人の自由だと言ったらそれはきりがない。問題を見過ごす事とほぼ等しい。確かに理論は正しいかも知れないが。この事を真の意味で上手く人に伝える手段を、私は持っていない。




さて遅くなったが、今日もそろそろ学校を出ようと思う。

You may also like...

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。