無意味な遺書

一縷の望みをかける。

――

苦しくて、…苦しくて、何も考えられない。
院試どころではないし、研究どころでもない。
心臓も胃も痛む。
このまま全て記憶でも消えてしまった方が、楽ではあるのだろう。
だが楽になることは逃避することであり、許されていない。
私にできないことが要求されている以上、限界まで苦しむことがせめてもの償いだろう。
できるのにしないと思われている物事の中に、本当にできなかったことがあった。
私は許されなかった。
私の生き方、存在は一体何だったのだろうか。

私が、他の人も考えるであろうと思っていた物事が、覆された。
人間不信になりそうである。
私がそこまで酷い人間ならば、もうこれ以上生きていたいとは思わない。
私が関わることで全てが険悪になったのならば、生きていても何も良いことは残っていない。


一人の人間が、考えることだけで何かについて導き出せることは、本当に少ない。
それに、考えるのに必要な根拠がそれぞれ時と場所の異なるものに散在していて、憶測がどうしても多くなるために、間違いだらけだ。
私が、人について推測の結果を当てにするのは思い上がりだったのかも知れない。

人は所詮、考えるだけでは自分のことも他人のことも殆ど把握できないのではないか。
自分のことなら、行動した内容と直接の理由くらいならわかるだろう。
では間接的な理由はどうか。自分の生き方をどこまで説明できるのか。優先したものとその理由は何か。それぞれにどのような価値を置いているのか。それぞれの実行の負担はどれくらいなのか。
マインドマップ等を書くと、私の場合は一度に意識に置く物事の「葉」(木構造の端)の数が百程度である。しかしそれらを前準備なしに整理して相手に伝えられるかと言えば、私にはできない。
他の人の中には、今の表現で言うところの項目数がもっと多い人も居るかも知れないし、そうでない人も居るかも知れない。
それらを、その人の行動を見て考えることで読み取れるかと言えば、私にはできない。
その人が何をしてきたのか、何をして生きているのかなど、ほんの僅かしかわからない。
これらを、他人に対して常に少ない項目数であると見積もることは、最低の見下しにあたるだろう。
だから私はそんなつもりではない。これは伝わらないことが良く分かった。


人に得手不得手があるというのなら、私が最も苦手なのは生き方の制御だ。
それができていたら興味のないことにいつまでも知らぬ顔をしていることもなかっただろうし、人に合わせることを優先できたかも知れない。
それらは決して試みなかった訳ではない。努力が足りないと言われるかも知れないが、得手不得手がある以上、私には人より努力が必要だから、人にできて私にできないことがあってもおかしくはないはずだ。
また既存の生き方に私は誇りを持っていたし、この生き方だけが絶対に守ってくれる物事があった。
それは絶対的な自己意識だ。
私は他人と同じであることを許さないし、私だけができるというような物事がなければ生きる意識を失ってしまうような人間だ。
本当に醜い人間だが、この絶対的な欠点をどうか欠点としてだけ見ないで欲しい。どうかこれだけは許して欲しい。
優しい人達は、私が時に人を完膚無きまでに潰しにかかってくることを、忠告はしてくれつつも認めてくれた。
私も、普段は意識して相手に合わせるように心がけているが、時々予想外な反応を相手が示すと、今でも攻撃的な方向に転換してしまう癖がある。
当然、転換した後で私は必ずそれに気付くし、反省している。ところが本当に少しずつしか治らない。転換に気付いても治し方まではなかなか気付けないためだ。

だがこれはきっと私以外の人でも、自分の一番得意な物事や自己意識の軸としている物事に照らし合わせてみると想像が着くのではないだろうか。
相手が故意にやったかどうかに関係なく、自己意識の軸を侮辱されれば何かを感じるのではないだろうか。


これだけは全ての人に知って欲しいことだが、私は故意に人を傷つけたいとは少しも思っていない。
そして私が信じていたことは、多くの人が、同様に故意に他人を傷つけたくないと思っているだろうということであり、例えば私が攻撃的になってもある程度は、故意でないことを悟ってくれるのではないかということであった。


人が何を発言したり行動したりしようと、表に現れたそれらを解釈するのは、解釈する人自身であり、発言した人ではない。

だから、どれ程言葉を並べたところで、行動をとったところで、相手が全て負の解釈をするならばそれに任せる以外に他はない。

私が心から叫びたいのは、人の発言や行動は常に様々な捉え方ができ、それらにできる限り気付いてあげることこそが、私の考える優しさなんだ、ということである。

これが私の考える理想の段階まで達すれば、相手の予想外な反応にも、攻撃的にならずに済むのではないかというのが私なりの解決案の一つだった。

だから今の私は、すぐに言葉を返すことはできない。言葉を返す前に相手を知りたくて知りたくて仕方がないし、私を伝えたくて伝えたくて仕方がない。

ポジティブな話か否かに拘わらず、全てを遠慮なく話せるようになって初めて、その人と距離が近づいたと私は思うようにしていた。


こういった私の根底の考え方が必ずしも良い結果を生むとは限らないことは良く分かったが、すぐには改善できないかも知れない。


相手の解釈の仕方がどうであれ、傷つけたことは償わなくてはならない。
全員が傷ついているならば、私は死ななければならない。
相手が受けた苦しみと、私に受けて欲しかった苦しみが確実である以上、私は受け入れられる限り苦しまなければならない。
再び人生を棒に振ろうとも死のうとも、相手が同等の苦しみを受けたなら、私は喜んで引き受ける。

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