言葉と記録

私は最近,以前のようなスタイルで記録を取っていないのは見ての通りである.
ただし,私自身,この状態が良い状態だとは思っていない.

記録というのは,人によってその存在意義があまりにも異なるものだから,今,この2行から書きだそうとしたことは,どこから記せば他人にも伝わるのか,といったことは正直,見当がつかない.そもそも,「記録」という呼び名が,私が迷った末に使うようになったものだ.2000年代の初期,「ホームページ」という文化から「ブログ」という文化に移った頃は,単に「ブログ」と呼べば良かった.しかし今,「ブログ」は日本ではひょっとすると死語ではないだろうか.かつてのブログに近い存在を今の時代風に言うならば,「ソーシャル」や「SNS」といったところだろうか.一人語りは一部の人だけがするもので,多くは短文のやりとりに終始する代わりに,短文・画像などあるいはその投稿時間やファボにできる限り情報をこめるという世界になって久しい.「やりとり」と書いたが,これも昔の掲示板のような明示スタイルから,書いて放置し,後は自然反応にまかせるスタイルになった.掲示板がいわゆる掲示板ならば,ソーシャルの世界は流れる川だ.流れるから,長文など流しても目で追うことができない.どんなに重要な短文だろうが,流れ,忘れ去られる.それが嫌な人は,「あとで読む」ようになった.あるいはシェアすることで,人数分の時間だけ一時停止したと捉えることもできるかもしれない.

ソーシャルと書いたが,この言葉自体に記録の意味はない.そもそも,流れ,忘れ去られるようなもののどこが記録といえるだろうか.そうしないために存在するのが多くの記録と呼ばれるものの役割ではなかったか.だから,今の時代,私が書こうとしている「記録」を表す言葉さえ,記録くらいしか見当たらないのである.

私はここに記す文章の大半を単に「記録」と呼ぶ.「日記」ではないと思っているからだ.だから,このように日付で管理されている体制も私の考え方にあまり適合しない.どちらかといえば,主に話題の階層で管理すべきところだろう.しかし記録を始めた2000年頃には,そういった概念が広まっていなかったので,なんとなく面倒に感じられ,また,話題の階層を手動で管理するには色々頭を使わないとかえって記録が行方不明になりかねないのではないかとも思えたこともあって,結局,日記に見えるスタイルでここに保管している.それに,いつか自分の技術でこの雑多な記録に何か優秀な自動索引付けをしたり,この記録を利用して何かを作ろうと思っている.だから今すぐに管理を徹底しなくてもいいという考えである.

「日記」ではない理由には,あまり日付との関連で語っていないことの他に,他人に見せているからという点もある.日記であれば,自分のために書き,自分にしかわからないことを書き,時に他人に知られたくないことも書くかも知れない.しかしそんなものであれば公開する必要はない.

私がここに記す記録は公開せずに成り立つものではない.無意識のうちに,読み手を想定して,説明的に書いているからである.自分用の記録は,樹状記録になったり箇条書きになったりすることが多い.わざわざ「以前のようなスタイルでの記録」という書き方をするのは,今話題にしたい「記録」がこのような単なる備忘録でもないためである.(兼ねていることはあるが)

ここでようやく最初の言葉に戻ってくるが,では何故,以前のようなスタイルで記録を取っていないことを良い状態だとは思わないのか.それは,自分用の記録はどうしても目前のことで埋まる傾向があり,広い範囲のことを書き辛いという点が一つあげられる.誰かに説明するつもりで書くと,一歩引いた状態で今の状況を見られる.普段考えていないこと,状況に流されているようなことを,考えられる機会として価値がある.もう一つは,自分がどうしたいのか,他人にどの側面を見せようとしているのか,その無意識の傾向に気づくことができる.これを意識せずにいると,段々と自分の行動が読めなくなっていくかも知れないと思ったことがある.そしてもう一つ,親しい人に自分の状況を伝えること.親しくても,読んでもらえないことはもちろん良くあるし,それを期待することはできないが,やはり読んで知ってくれている人と話すときは安心感があった.最近,親しかった人でも自分の状況や考え方の推移をまるで知らなくなってしまった人と話すと多少残念に思えることがあったので,書くだけは書いておいてもいいかと思い始めたのである.


ところで,以前のようなスタイルで記録を書かなくなってしまったことにも理由がある.
こちらはかなり沢山あるので,思い出しきれず書ききれないかも知れない.
思いつく範囲でだけ書いておくと,一つは,――多分これが一番の理由だが――言葉が重すぎることが挙げられる.あらゆる解釈がされてしまうことを恐れずに思い切って一言で書くとこうなる.私の言葉は特に重い.どういう意味か説明するのは難しいが,通常なら言葉は川に流せるくらいに軽く,忘れられても良く,気楽に発することができ,何度も同じことを平気で言うようなものだとすれば,私の言葉は,読もうとしたら簡単に流すのが難しい仕掛けがあるのだろう.完全に読むか,全く読まないかを迫るようなものなのかも知れない.

重いだけならば,まだ致命傷ではないのだが,重いことが様々な悪影響を道連れにし,結果的には致命傷になった.文章は,極端な話,全ての読者に同じ解釈をさせることは決してできない.例外を作ることができたとしても,それは研究になるレベルの話であろう.そして,読者が,重い文章を曲解してしまったとき,悲劇が始まる.そして,その悲劇は実際にあった.

他人に対する影響だけではない.言葉というのは,多かれ少なかれ人を縛る効果がある.そしてその効果は,言葉を発した本人にも強烈に働く.言霊という言葉があるが,霊はさておき,言葉に強い効果があるのは確かだ.そして,そういう点では書き言葉の方が強烈で,記録として残すようなものが最強であるように思う.私は,この記録を書くことによって,自分はこういう思考なのだと,今こういう状況なのだと認識すると共に,無意識にそれを疑わなくなってしまう.これを意識的に疑うようにすることは存外難しい.言葉というのは,私が思うに,思考したものを書き出しているのではない.言葉を並べ,それが確からしいと思えるとき,それを思考であると信じてしまうだけのように思える.だから,重い言葉を書き続けることは危ない.備忘録ならば,事実以外書かないため,分量が増えたところで思考が縛られるようなことはあまりないが,記録では,事実でないことをよく書く.例えば今書いているような,単なる推測に過ぎない文章がそれにあたる.すると,私の無意識が,記録で書いたことも正しいと信じてしまうことがあるように思う.

現実世界で起きていることは,解釈次第でかなり異なる状況になる.書き記すことは,現実世界の事実を,ある程度縛られた解釈で一時的に確定させる.記録を取らなかった時期に,あえて記録を取っていない記憶を全く異なる解釈で思い返すことができるか試してみると,それは容易なことだった.何も書かないで思い出にある状況というのは,こうして記録に書き記すよりも遙かに情報量が多いものである.記録を書いても記憶し続けているなら良いものの,それでも記録を取ると過去の記憶の解釈が心なしか固定されやすいように思えて恐ろしく思えたことも,記録から距離を置いた理由の一つだった.

今振り返ると,特に鬱状態にあるときに記録をとり続けるのは私にとってあまり得策ではなかったと思える.多少うまくいかないことがあるときに記録を取るのはむしろ一歩引いて解決策が見つかるかも知れないとも思うが,鬱は別かも知れない.鬱状態というのは,精神状態がまともでないがゆえに,まともでない文章を書き連ねることになる.ここで言葉の解釈縛りが悪循環を起こすと自殺行為になる.そしてそれを他人が読むことで,悲劇の連鎖が起こる.難しいところなのだが,過去の失敗談やうまくいかなかったことを後の人のためや自分のために残しておくことは価値があると思う.一方で,鬱が関わるような経験を書くことは,私の場合,悪い影響が目立った.ここで断っておくが,私は過去に精神的に非常に深刻な状況だと自分で後で振り返って思える状況に数年単位で陥ったことがあるが,私は自分の信念でやりすごし,結局診断にすらいかなかったので精神病になったことがあるかどうかは定かではない.そして後の方針として,危険な記憶を封印するという至って普通の方法で,今の私に至ることができた.私は,物事を忘れるのが怖い.だから絶対に記憶したままにしておくと誓いながらも,言葉さえも,何もかも,危険な記憶を思い出しかけるたびに意識を切ることを繰り返し,そして思い出す最大の原因になる学部を脱出した.それを中退でなく,好成績での卒業で飾ることができたのは奇跡かも知れない.そして自分が誇れる環境に移り,ついに危険な記憶を通常状態で思い出すことはなくなった.学部の話題を5分話す程度なら,今では問題ない.学部という言葉を何度か出したが,度重なるいくつかの悲劇のそれぞれは互いに関係がないものもある.しかし,これらは学部時代という時期に関係するものが多かったため,学部などの言葉に関連づけて封印してある.いつか,危険な記憶を分解しながら記録し,記憶からは完全に消し去ってもいいかもしれない.

関連して,最近ある研究室で1名,特に問題視された人物がいたが,彼は学部時代の一部の人間に非常に似ていたので,私は会うだけで危険な記憶を引き出してしまう恐れがあり,距離を置いていた.また,彼の態度や発言からは,上で述べた,言葉が人を縛る現象が恐らく起きて,周囲の博士や同期に酷い損失を与えていたようだった.このような現象に対して私がとれる対処は,やはり意識から切り離すことしかない.そして,本人は明らかに自覚があるようだったので,本当は本人があの場から離れるべきだったと私は思う.救ってやらないのかと思う人はいるかも知れないし,私も学部時代には何人も救おうとしたが,その結末は暗に示したとおりである.それに,私とあまりにも真逆の考え方の人が本当にいるということを私も知るようになった.配慮を突き詰めていくと究極的には無言になるしかない.

危険な記憶を引き出さないために,これ以上詳しく書くのは避けるが,このあたりの理由があるので,私はむやみにネガティブな発言をする人間も好かない.これは他人に関して述べる発言でも同様で,同じ人物の同じ欠点を3回以上言うような人からは距離を置いている.こうした方針をとる以上,私自身もどんなに苦しくとも他人の欠点を言葉に出すことは極力避けたいと思っている.そしてこれに関連して,面白くもない適当な発言をする人間も好かない.真面目に語ったのに誤りがあるという時はもちろん気にとめないが,最初から適当にかき混ぜようとして発言するような人からはなんとしても離れる.このようなことを書くとTwitterで見かける恐ろしい人数を敵に回すことになるのだが,確かにTwitterの多くの発言を好かない理由はそこにあるのだが,一つ弁明しておくと,そういうかき混ぜ発言にも何らかの意味があるのだろうと考えることはある.例えば,馬鹿っぽさや弱みをあえて演じることで,相手の警戒を解く効果を無意識に狙っているのかも知れない.そして彼らにはそれが必要なのかも知れない.あるいは,他人に配慮するあまり,発言できることが無くなったなれの果てなのかも知れない.


さて,記録を書けない理由の方が勝ちそうな様相になってきたが,そして実際今までそうだったのだと思うが,イベントの体験談などの事実をそのまま書き記すスタイルならば問題は軽減できるように思える.実際,最近の記録では,そのスタイルに自然に移行できるか試そうとしているものもあった.また,精神的に辛い時に変なことを書くことを何とか避けられれば,うまくいかないことがあるときに記録すること自体はそこまで問題ではないように思える.ただし,うまくいかないからこそ精神異常を招くということもあるので,慣れないうちはやはり避けた方がいいかもしれない.それにうまくいかないときは,何らかの事実の解釈ミスがあることが多く,書くなら積極的に疑う必要があり,高度な技術が必要になる.後の誰かのために書くというのでも,解決後に書くのが妥当である.適当に書くという解決法は,事実だけを書いているときなら間引いても大丈夫なことが多いが,そうでない場合は自分の方は大丈夫でも他人の悲劇に繋がりやすく,やはりなかなかできないように思える.

様々なリスクを知った上でなお,上で述べたように,自分がしていることを見直すため,他人との交流のため,これからは可能なときはまた記録を書くようにしようと思う.そして,Dの修行に生かせたら,素晴らしいと思う.そして,技術的な話はこうした記録から分離して本格的に記すようにしたい.

You may also like...

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。