比較

過ぎた時間は取り返すことは出来ない。

でも時間以外なら取り返せるものもあるらしい。

無感情に生きてはいけない。

何のために今ここにいるのかを忘れてはいけない。

一つ一つの行動に意味を持たせていなければいけない。

自分の行動の意味を把握していなければいけない。

今のその行動が、他でもない自分に、何の意味を与えているのか。

人は放っておくとどこまでも逃げる部分が存在するものらしい。

どんな立派な人でも逃げない保証はどこにもない。

自分はそれをどこまで食い止められるか。

食い止めるには逆向きの意志、つまり乗り越える方向の意志がなければならない。

放っておけば逃げるのだから、逃げたいなら意志は要らない。

逃げる意志まであるならば、一瞬で逃げ切れる。

逆に乗り越えるならば、多くの労力を要する。逃げを振り切るだけでは足りない。

日々何回も乗り越えるか逃げるかの場面が存在する。

逃げ切れるのか。乗り越えられるのか。

一つ何かを乗り越えれば、その時に初めてまた新たに乗り越えるべきものが見える。

そして幾度も乗り越える苦しみと喜びが繰り返される。

本人が辞めない限り、続いていく。

完全に逃げ切った人は楽になる。

もう乗り越えるべきものは何もない。

それ以上、先に進むこともない。

一種の”終点”である。

私はその種の終点には行く気はない。

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西欧と比べて日本人は特に、人を判断するときに他の人と比べる傾向があるらしい。

そして自分自身の存在価値を確認するのにも、他者との比較をする癖があるらしい。

恐らく私も、自身の価値は無意識的にも意識的にもどこかで人と比べている時があるのだろうと思う。

そうでない人というのは、例えば、神を信じ、自身が神に恥じない行動を取っていると確信できれば、他の人からどう見られようとも、自分の存在価値を信じられるという考え方があるという。

どちらがいいのかは私にはわからないが、しかし他者との比較はしばしば、根拠の薄い劣等感を招くことがあるとは思う。

劣等感を抱くと、他者が実際にはその人の考えとは全然違った見方をしていたとしても、その人は存在価値を見失うことがある。

劣等感を抱いた人間は、無意識下でそれが行動に影響し、それが対人恐怖にさえなることもあるのかも知れない。

だからといって、他者との比較による、根拠の薄い優越感を抱けばよいわけでもない。

出る杭よりも先に、出しゃばった杭が打たれる。

人は他者と比較して、時に他者になる。

皆同じならば、自分の存在価値が薄れる以前に、存在価値の有無の責任が自分から解放され、逃げ切ることが出来る。

かといって、全く他者との比較がないのも問題がありそうである。

自分を失ってはいけない。

その上で、周りを見て、自分が信じられる価値を探す。

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