助けて欲しいと言いたかった。だが、どうしたのかと聞かれても答えることはできなかった。

 正直に書きたいと思った。だが思っていたより私自身の視点や考えの揺れが激しかった。例えば日々の私の考えのうち、最小限の忘れたくないことをメモ程度に携帯に書き留めておいたものがある。これらの中でさえ、日を重ねる毎に私は私にとって私が同じ人とは思えないくらい考え方を変えていたのだ。それは見方によっては当たり前だとかむしろ喜ぶべきことだと思う人もいるかも知れないが、私はこれらのメモを後に整理したいと思っていたので、それに関しては都合が悪かった。
 それなのに何故こんな分散記録を行ったかというと、理由の一つには、今までのように私が一つの「日記」に書き記せる考えの及ぶ範囲が一度では限界があるからというのがある。今までと同じようにそれぞれの「日記」が完結しても良いのだが、一度今回のような融合もやってみたいとも思っていた。
 私は整理し甲斐のある物事を整理するのは好きだ。だからメモをブレインストーミングのようにして、私の概念における「日記」に整理してみたいと思っていた。何を整理したいと思っていたかというと、私の考え方の中にある私を不安定にさせる要素と私の気力を崩していく要素である。それらを今の私に可能な限り分析して、私を不意に襲う異常な絶望意識から私を救う考え方と私の未だ制御不能な部分のいくらかを制御する方法を考えたいと思っていた。制御する必要はないとか気楽にいけとかいうのは私にとってあまり解決にならない。それは後述するつもりである。
 こういうことについては誰にも私を助けることはできないと私は思っていた。この種のことは誰もが自分のことで精一杯だと思うからだ。他人の考え方を理解するにも一苦労のはずである。私のこの先の記録については、誰かが読むことができたとしてもどの程度私の気持ちが伝わるかは私には正直言って全く予想できない。だから日常は私は黙っている。だがこのままでは自身の堕落と崩壊を止められそうにない。しかし私は無理してまで誰かに読んでもらいたいとかわかってもらいたいとは思っていない。私が誰かに期待することがあるとすれば、沢山の良い文章があるこの世の中で、偶然にもこのような駄文を見つけてしまった人の中にも一人くらい、重い気持ちになる人がいてくれたら嬉しいかなと思うことくらいだと思っている。重い気持ちというのは私なりの表現で、心を動かされるという意味のつもりである。それは怒りでも呆れでも構わない。とにかく、時間を無駄にしたなとだけ思うであろうことが予想される場合はこの先は見ない方が良いことは確かである。その人にとってはろくなことは書かれていないであろう。
 もしかしたら私だけがどうすることもできないと思っているだけかも知れない。他人から見ればどうということはない単純なことなのかも知れない。一言で解決できるようなことなのかも知れない。だがそういう場合にも、残念ながらその一言というのは大抵の場合に私にとってはその人の思う真の意味では理解できないものである。結局は自分で解決策を見つけなければならないだろう。

 前置きはこの程度にしておくが、これはメモの集大成とでも言うべきものなので話が飛び火、いや火が無くとも突然現れる話が多い。そう言うわりにはこの程度しか記述できないのかと思われるならばそれは仕方がない私の限界だとしか言いようがないが、恐らくそうは思われないはずである。そんな構成であるため、書かれた日や加筆時期などが非常に複雑化している。或る程度は時間の流れを保っているが、そのあたりは人間の記憶と同様、断片的なものになってしまった。では、改めて日記を始める。

 始めに断わっておく。この先の文章はあなたにとって非常に理解困難であろうことを。この文章を私だけでなくあなたも読んで下さるならば、何処まで読み進められるだろうか。もちろん、私はわざと難しく書こうなどとは思っていない。だがこの先の文章に著す内容はそれ自体が私の苦悩のまとめでもあるため、読む側にもある程度は苦しまざるを得ないところがあってもおかしくない。もし楽に読めるならば、その人は少なくとも精神面において私の先輩であり、私が尊敬できる人だと、私は思う。

 今あなたがこうしてこの文章を読んでいるということは、私は漸く、本当にやっとの思いで、自分の崩れかかっていた精神状態や心を再びある程度は安定させることができたということだろう。私は、自分のために、自分の精神構造や行動原理、論理などを分析するためにこういった日記としての記録をも書くが、同時に、誰か一人にでも私のそれらを見てもらい、私を裁いたり、時に参考にしたりなどしてもらえたら嬉しいとも思っている。だが今回の記録は、私の心の中での一段落までに至る時間が長すぎたために、それに纏わる記憶が抱えきれない量になってきたこともあって前例のない長さになっている。もちろん、これは一息で書いたものではなく、私が自分のことを前述のように分析しようと考える度に、未だ書き足りていないと思ったことを書き足していったものである。だが最終的に導きたい結論や解決策から見れば私にとってはそれらすべてに関連がある。

 お久しぶりです。皆さんはいかがお過ごしでしょうか。私は、まだ生きているみたいです。
 合宿後に日記を書くのはこれが初めてになりますね。あの時以来、完全に消息を絶ったかのように書くのをやめてしまったので、死んだんじゃないかと、冗談混じりに言われたこともありました。
 日記をまたこのように書いていることと、日記を書かなくなっていたことでは、どちらの方が理由があった方が良いでしょうか。実は両方ともに理由があるのですが、その理由を本当に全てはっきりと書くことは憚られるので、それはそれとなくこの先の話に示しておくだけにとどめたいと思います。これから書くことは、日記を書かなくなってから今までの空白の時間に私が記憶に留めた、私の印象に残っている事柄が中心になります。

 合宿は、大変だったというよりも、やったことも出来事も多く、密度が濃かったという風に思っています。
 合宿先へは、電車組と車組があり、私を含む電車組は途中の駅で集合して、その先も暫く電車で行き、その先はバスで行きました。先日にも遅刻で厳重注意を受けていた仲間がこのときも遅れたような気がします。でも私にとってはそれよりも電車内でのことの方が記憶に残っています。向かい合った長椅子に私を含めて六人くらい座っていたでしょうか。私の隣には二年の先輩が居て、私といくつかの話をしていました。その先輩も、私と同様に、今年弓道部に入ったばかりの弓道未経験組でした。合宿のための、先輩の愛情こもったパンフレットが用意されていたのですが、合宿での目標を書く欄があり、私も先輩もそのときまだ悩んでいて何も書けていませんでした。それで、先輩と共に、合宿中に皆中させるだとか、そんなこと書いたら怒られるだとか言って笑いあいながら、適当に書いていました。合宿ではきっと起こりうるだろうと思っていたことはこのときから既に始まっていました。それは私にとっては既に若干の苦痛でした。その苦痛を恐らく直接に感じられないであろう人間は四人いました。私にはその程度しか語ることができませんが、確かにそういうことはありました。それは少なくとも私にだけは相当の苦痛になっていきました。

 如何にも山奥といった感じのする、木々に囲まれた合宿地だった。宿では携帯の電波もau含め通じなかった。道場は貫禄があり、昔は学校だったものを改造したような古い木造の建物だった。
 山荘に着くまでは正装といってスーツに部章をつけた姿で行った。足袋は合宿初日の山荘到着後に初めて履いた。後に洗えばすぐに縮んだがこのときは足袋は大きすぎてすぐに脱げてしまった。いつか後輩に助言する機会があれば、余計なお世話かも知れないが使う前に一度洗っておけと言っておきたいと思った。
 私は他に分担品の一部としてビデオカメラを持っていた。
 先輩方を引率として五、六人の班に分かれて行動した。班は七つあり、全五日間、仕事や射込みなど大体はこの班が基本となって行動していた。
 朝は先輩を起こすという仕事があった。食事時は毎度配膳の仕事があった。食事の席にもいつもの規則が適用されていた。先輩の方から順番に席に着き、最初に飲み物のコップに口を付けるのもその順番といったものだ。因みに私はこういうのは嫌いじゃなかった。面白いというのとも違っていたが、しかしそれに近い感覚を抱いていた。
 朝は鳴き練があった。大きな声で中りと叫ぶその長さをできる限り長くするものだ。短かった数人には必ず罰と称して見せしめ校歌斉唱があった。射込みではローテーションなるものを行っていた。矢取りもこれで班毎の頻度は公平になっていた。射込み中はできる限りメモをとった。とっているうちに似たようなことばかり書いていることに気付き、練習の割合を上げた。先輩の教えてくれたことの特に自分では気付かなかったことに集中してメモをとったがしかし似たようなメモは多く残っている。これら同じような注意点は今後直りにくいところだということになるが、後に確かにこれは実感できた。
 夜は会合があった。教士の先生にも助言を頂いていた。この先生は普段別棟にいらっしゃった。非常に大らかで、しかし繊細な優しい先生だった。一度私が食事時に先生を呼びに伺った時は理系の一学生として会話をした。先生の方から、「ワンセグ」とは何故ワンセグと呼ぶのか、一体何であるかなどの話題を振ってもらえたので、私は嬉々として話し、先生も良く聞いてくださった。会合の時は先生は人生を語りながら弓道を良く語ってくださった。
 自主練の時は数人が熱心に自主練に励んでいた。深夜に差し掛かっても自主練を続けた強者もいた。そんな強者は風呂上がりに普段着ではなく道着に着替えることも多かった。
 夜から深夜にかけての何時間もの間は的張りを行った。普段と違ったことはあまりにも物が乾燥しないことだった。そのため、糊は何時間経っても乾かず、作業の途中に完全乾燥を要する的張りは非常に困難を極めた。ドライヤーなどを用いた強制乾燥は紙が変質してすぐに破れてしまった。深夜では人そのものが動作が鈍くなり、またそれを除いても人それぞれ別の点で倫理の無い部分や粗が見えた。自分も例外ではない。誰も例外ではなかった。そんななか、良く争いといえる争いが起こらなかったと私は勝手に感心したものだった。
 最終日が近づくと夜に先輩からの愛の鞭もとい反省会兼お説教があった日もあった。私の隣で正座ができない、もとい、したくない人が定期的に地震を起こしていたことを除けば私はこの時もこういうのはありだと思っていた。先にも書いたような、面白いというのとは違うが、部のありかたそのものを奥ゆかしいと思うようなそんな心持ちである。因みにこの愛の鞭会合は他の数人の先輩方によって見守られもとい覗き見されていたようである。
 初めての座射は大変なものだった。その日の内に一気に新しい行動を覚えることになった。弓道用の道場の近くの別道場にて班員に座射を指導してもらった。とても楽しく面白かったがそれよりとにかく大変だったことを覚えている。最初の座射による立は本当に大変だった。あの種類の緊張は厳密に言えば初めてだったと思う。緊張しすぎて普段通りに行えない。普段でさえ遅い射である人間がこのときどれほど遅かったかは想像するだに恐ろしくなる。そのわりには、であるが、大して急かす言葉も無かったことは非常に有り難いとその時思っていた。緊張の他に楽しさや嬉しさもあった。的に自分の矢が中ったときに先輩に声をかけてもらえても返事に三秒以上かかった。
 最後の午後練は余興となった。余興では一人当たり六本の矢を持っていた。そして我々新入り組は一本でも中った場合は籤を引くことができた。籤を引くこと自体が籤引きの確率としてそれなりになるほど我々の的中率はこのとき低かったものだ。そして籤は中った本数の記録を増やしてくれるものだった。一倍二倍五倍十倍といった倍率があり、私は一度六本中二本を中てて十倍を引いたために六本中二十中したことになったことがあった。
 全体的に見ても合宿は面白いものだった。

 私は少しの待ち時間ももったいないと思うようになったのかもしれない。

 転科の話は今日再び繋がった。H先生に聞いたところ、HI先生にはもう話を確認してあるということだった。そして新たな情報として、転科試験そのものは、行われる可能性が高いということがわかった。ただし入れてもらえる可能性については尚不明である。私の学年順位についても訊かれたから、そういう種類の話ではないかと思っている。私が転科に関してこれからすべきことは、三度目になるが学生課へ行き、詳細な試験時期、科目を尋ね、HI先生にも情報工学科の先生を通じて科目等尋ねてみることである。転科試験が行われる可能性が高いというところまで話を持ってこれたのはこれが初めてで、それまでは情報工学科の募集は無いだろうと言われることが多かったから、これだけでも大きな進歩である。それも、もしかしたら私の行動が上の人に伝わったのかもしれず、それによる状況の変化なのかもしれない。そう思えば、俄然勇気が出てきた。

 他の学校の状況は良くは知らないが、今私が居るこの学校には、重い過去や重い現状、または重いしがらみとか、そういったようなものを背負っている人が結構居るように感じている。自分も一応例外ではないつもりだ。特にそういった点で私と何らかの共通点を持つ人を良く見かける。

 私は、この学校に来たのは何らかの必然だと思っている。

 登下校に片道最速二時間程度かかるのがこれ程負担が大きいとは正直思ったことが無かった。毎日東京を跨いで向こう側へと行ったり来たりしているだけで一日四時間を潰している。これをどれ程負担に感じるかは、身をもって体験した人でないとわからない。もちろんもっと時間をかけている人もいることは知っているが…。

 部活に行けば、普通に終えても、真っ直ぐに帰っても帰宅は二十三時を過ぎ、何かで遅くなればすぐに日付が変わってしまう。そして体力の無い私は、帰宅したら食事が辛うじてできるかできないか程の力しか残っておらず、部屋に戻って電灯を消すのが正直なところ限界である。つい先日、電灯用のリモコンスイッチをつけたのだが、それをつける前は電灯を消すことさえできずに、気絶するかのように瞬時に眠ってしまっていた。電灯をつけたまま眠ると、私の場合、全く深い眠りにはつかないので、翌朝は睡眠不足に悩まされた。目の隈もひどく、そんな苦しい状況でも授業は何とか眠らずに受け、そのまま部活に行き、また睡眠不足になり、学校に行き、部活に行き、気付けになりそうなものやや目覚ましになるガムなどを買って帰り、何とかして課題等やらねばならないことをやって、そうしていると机上で座ったまま姿勢良く気絶するかのように眠ってしまって睡眠不足になる、というような悪循環を続けていた。部活も週に三、四回ならまだ調子を整えられたと思うのだが、毎日となった瞬間に何もできなくなった。このことによる私の精神負担は蓄積されていった。

 私は部活をやるために大学に入ったのでは無い、と私は嫌悪感を強く覚えるようになった。

 漸くバイト先が決まったときの話だ。

 友人に紹介してもらったバイト先で、非常に良い雰囲気の会社だった。居心地は良く、仕事内容も、私が最初に希望していたものにかなり近いものだった。こんないいバイトが本当にあるのかと、今まで四回以上に渡って地雷を踏んできた私には思えたものだった。

 ホームページは見たかと聞かれた。家でとれる時間があまりなくて見てなかったので、見てないと言ったら、名刺渡したよねと言った後、それは良くないねと言われて焦った。
 後にホームページを見てみると私から見て非常にデザインセンスの良い、きれいに整ったページだった。そこには会社の概要や社長に関することまでいろいろと書かれていたが、そこで初めてそこが設立してまだ一年くらいの新しいベンチャー企業であることに気付いた。

 社長さんと帰り際に話すといろいろなことがわかって面白かった。その社長さんに私がどんなことをやりたいと思っている人なのか訊かれた。興味を持ってもらえたらしい。私は人工知能に関係することをやりたいと言った。私自身独学があまり進んでおらず、prologもさして使ったこともないくらいだったが、前期授業で認知工学の先生から学んだことを思い出しながら、自然言語理解の研究などをしたいと言ったら、社長は、自分がやっていたのとは違うのかなと言い出した。

 なんとその社長さんは以前に人工知能関連で職についていたことがあったらしい。ただ、案の定その道はあまり需要がないということが聞けた。

 この前はMOさんと話した。この会社では今のところ良く会うのは社長さんとMOさんとMAさん、そしてNさんである。MOさんは、パソコン高度成長期に学生だった人で、自分で頑張ってプログラムコードを作って雑誌に応募するとお礼金だろうか、そんな感じのものをもらえた時代に頑張ってコードを作っていた人だった。その人は電気工学科系にいたらしく、学校の情報工でやってるようなことは自分でできるから、自分では独学できない電気工にいることにしたと言っていた。確かに私にもそんな考え方があった。私も、ソフトの方はある程度自分でやれると思っていて、ハードウェアに関するところは学校の授業で補おうと思っていたところもあったのだ。それで電気工と情報工の中間に位置するような場所を探していた。それはもう明確に、そういう学科を探していたんだ。

 Nさんは私が大学一年生だと言うと優秀ですと言ってくれた。彼女は大学を出てないという。そして私が工業系だということを聞いて、うちのもみんな工業系ですよと言っていた。Nさんはコーヒーを入れてくれた。インスタントタイプのがそこにはたくさんあって自由に飲んでいいと言われていたのだが、私がその一つを持って行くと、~をご所望ですかといって、その先は作ってくれた。優しい人だと思った。
 その日はその人とバイト時間がかぶってしまったため、予備にあったノートパソコンのセットアップ作業をやることになった。社長さんはこういうの好きかと訊いた。私は好きですと答えた。何しろ今までの十年以上に渡ってそんなことばかりしてきたからだ。特に中高時代は凄かったつもりだ。

 ドライバディスク等は無いから「そこはなんとかして」、と、私が期待していた言葉も聞けた。ネットが繋がらないととってこれないが、そこは手持ちの端末でなんとかした。

 私にそのバイトを勧めてくれた友人はそのバイト先のすぐ前にあるマンションに住んでいる。それで一度バイトがてら会うことができてとても嬉しかった。そしてその友人も、私がバイトをしている姿を見てくれていたりして、私はとても嬉しかったんだ。

 この日は情報工に関する日と言ってもいいかも知れない。良く考えてみれば情報工の人ばかりに会っているし、情報工の新たな知人ができた。Mというらしい。弓道部室にいたときには情報工の弓道部仲間に転科の話を聞かれるし、その情報工の知人に会ったときは転科しようとしてる人として紹介されて転科の話をするなど、情報工に対する転科に縁が深い日であるようだ。
 情報工の、弓道部仲間の一人は時々かなり厳しいことを言う。これはこの人の性格だろうとある程度はわかっているが、それでも不愉快なこともある。この日もそんな場面はあった。

 怒りやすいとか、そんなのはまだ私は少しの精神的余裕を消費しながら見過ごせるのだが、自分の不機嫌を他人に押しつけるのは看過できない。とても耐えられない。私が唯一耐えられないのはその種の感情の異常である。何も考えていない。少しは自分で耐えろと言いたくなる。

 文章論の先生のT先生による文章能力検定の補講がこの日ある。

 この日は弓道部の道場練もある。昇段審査は十日に迫っている。その昇段審査のための練習である。

 リーグ戦までの毎日練ですっかり私は疲れてしまっていたということに最近になって気がついた。もう今すぐにでも大休止をとりたいと思うほどだが、せっかく今まで大変な思いをしてきたのだからその証としてでも昇段審査に通りたいと思った。そのためにはまだやめるわけにはいかない。だがもう精神的にはかなり限界である。

 バイトは八時から十一時までの三時間を基本的な割り当てとしてもらった。そうすると、普段のルートで帰るには終電ぎりぎりとなる。十一時の電車を逃すと、帰れることは帰れるのだが非常に遠回りでお金もかかることになる。

 帰宅すれば確実に日付は変わっている。そんな生活はお勧めできないと社長さんに言われたが、疲労感は弓道部よりも軽かった。

 ある通信工、つまり同じ学科の友人は下宿生だが、こちらはこちらで非常に苦労している。まだ私がバイトなど何の経験も無い頃にどんなバイトがいいかなどとふと訊いてみたら、日雇いやらその他の非常に広い世界の物事というか摂理のようなものに精通していた。本当にいろんな話が聞けた。

 この人が持っていたものにキシリトールの入れ物がある。角砂糖が入っていた。食費にあまり金を費やせないらしく、つまりはそういうことだった。

 疲れた、とついにはっきり言ってしまったのが確か8月か9月頃だった。

 それからしばらくして、万事休すまでの過程は私自身見ていられないものだった。

 最近では、それまでの習慣の中でも、少しでも疲れるというか、精神的な余裕を消費してしまうようなことから片っ端から逃れるようになってしまった。その中でも一番最初に切り捨ててしまったのは日記関係である。私が日記を書く際には相当な思い返しがあるため、良いことばかりなら問題ないが少しでも悪いことがあると反省だらけになってしまって気が滅入ってしまうことがあるためだと思う。しかし本当は書いていたほうが後の状態は良い。しかし書く気力がなくなってしまう。
 次に切り捨てられたのは学校での課外活動のうち、私があまり意義を見出していなかったものだ。それは英会話だった。他の人が見たら馬鹿だとしか思えないだろうが、私は全く行くことができなかった。最初は忙しすぎて行く余裕がほとんどなかったから行けなかったのが、途中からはそういった調子崩れのために取り返しがつかなくなった。考えるだに苦しいので、それほどならば一度考えるのをやめてできる限り早期の回復を待ったほうがいいと思った。どう見ても馬鹿に見えるだろうが、黙っていて欲しいと思っている。
 その次に何かが切り捨てられるまでの間にはしばらく時間があった。この時点で既に学校の授業と部活くらいにやることを絞り込むことができていたからだ。部活の方はせめて重要行事が一通り片付くまで調子を保ち、できれば正式な休憩期間に入るまではそのままの調子でいたいと思った。

 だが部活と学校だけなどという生活は私の方針が許さなかった。

 本来独学で更に別のプログラミング言語やらサーバー関連やらを学びたかったのだが、そんなことをする時間は部活に全てとられていた。だからアルバイトで技術系を選び、バイトをしていく中でその方面の勉強ができないかと思った。自分で数か月探していたがそんなアルバイトは殆どが勤務条件がきつく、私としてはかなり難しいものだった。面接やら試験やらに出向いては落ちての繰り返しをしていたのだが、知人によればそんなことをしているのは珍しいとのことだった。だが私はそれでいいと思った。そうでなければいけないのに何故誰もやらないのかというように思い、怒りを感じることさえあった。何故怒りを感じるのかがわかる人は、私を少し理解していると私は思う。ただ、私は所謂普通のバイトというのもしなければならない、またはしたほうがいい、とも思っている。特殊なことばかりやっていては圧倒的な経験不足で悩む場面が出てくるからだ。

 そんな中、私が慕っている友人があるバイトを紹介してくれた。そこはやはり勤務において少し遠く、その点では厳しいものだったが、それ以外は比類ないほどの好条件だった。そこは「その方面の勉強」さえもできた。

 それ以降私は何に絶望していてもアルバイトの関係だけは幸せだった。それがこの後期における私を生かし留めてくれるものの一つになったことは確かだろう。しかしどういうことか、この先私はさらに気力を無くしていった。好きでやっていたはずの部活も、毎日練体制が終わる頃には殆ど気力が残っていなかった。最後の方は確かに医者なり行事なりバイトなりで忙しくていけなかったが、それが無くても行かなくなっていたのではないかと思う。無理に行くのでは本末転倒なばかりか確実に他人に迷惑がかかるため、それは避けたかった。しかし行かないことはさらに私を苦しめた。この辺りの感情の流れは説明が難しく、伝えきれる自信はない。
 そのため、条件が非常に厳しいときに無理に部活に出ることはなくなった。それによって無理はしなくなったが欠席率が異様になってしまった。まだ昇段審査が残っている。そんな時だったが、既に手遅れだった。結局その昇段審査には、一切の練習なしでいきなり本番ということになった。
 私の狂気が表面化しつつある時に、一人だけ、部室で「どうしたの」と声をかけてくれたのが印象に残っている。その呼びかけは本当に嬉しかったが、私は忙しいと言って折角のお茶を濁してしまった。本当に言いたかったことはそんなことではなかった。

 昇段審査では、まさかと思ったが高校時代の友人に会うことができた。そこで初めて黒道着が珍しいことに気付かされた。別に上の空だったわけではない。緊張のためだと思う。

 審査の時が近づくと、急に私が大前になったという知らせが届いた。大前は最初に入場し、審査員の目の前に行くため一番注目されやすい。そして私は体配を実践練習したことはなかった。合宿の時と前日に教えてもらったサイトで見たのと、直前に説明をもらったくらいだった。そして本番では当然のように入場位置を間違えて引き戻される。さらに少し慎重にやっているととにかく急げと怒られ急かされる。そしてこちらが何かをする前に審査員から次々と声がかかる状況になってしまった。私は完全に集中力を失い、ただ基本的な命令をそのまま実行する機械のようだった。一手といって、二本の矢を持っているが、そのうちの一本目はまっすぐには飛んだものの、途中の地面に刺さってその先には行かなかった。二本目はまたすぐにと急かされて、事前に聞いていたタイミングとは完全に関係なく、すぐだった。二本目は意地で僅かながら気合いを入れて慎重になったため、辛うじて届いたが安土に刺さるのみだった。

 予想内の中でも予想外の出来事に近く、私は退場に関する記憶を失っていた。だから退場は、さらに適当な退場となっていたはずだと思う。その後の私は予想内ながら最悪の結果に苦しんだ。しかし、もっと練習に行っていればという後悔はしなかった。それはそれほど行くのが苦しい状況だったからだ。ただ、私としては頑張っていた時期があったならば、せめてそれなりに何か残るものがあったらいいなと思っていた。
 私はそれ以降も忙しく、もはや殆ど部活においては幽霊になってしまったと思う。

――
あまり関係ない話になるが、以前に友人が忙しいという字は心を亡くすと書くと言っていたことを今でも覚えている。その意味にとってもらえるならば、忙しいの一言でもしかしたらこの時の私の心境が一通り表現できるのかも知れない。
――

 だが部活だけではなかった。

 この時既に学校の授業もいくつかは出なくなってしまっていた。

 私は全てを苦しく感じ、手も足も出ない状況になっていた。だからできる限り回復するようにと防衛にまわっていた。自滅のパターンではないかと気付くことはあったものの、どうすることもできず、休めば取り返しがつかなくなってさらに苦しめるような授業は極力除き、他は数種類休むようになった授業があった。

 見方によっては、いや普通に見れば私は全滅に近いだろう。私は万事休したと思った。それでも学校に週五、六日は最低行っていたから、その程度の「最低」は守っていたが。しかしそういう風に考えなければ救われないほどに私は酷かった。

 以前からそうだったが、私が「助けて」と悲鳴をあげる頃には、最早誰にも助けられない状況になっているものだ。
 私はもう「疲れた」とは言いたくない。だから回復に集中しようと思った。

 一時は転科だけでなく再受験も考えていた。SITの学費は高く、私が元々狙っていた国立大学に比べたら実に三倍近くかかる。文章論の先生が言っていた。自分のために親がいくら払ってくれてるのかくらいは知っておくべきだと。そう言われた時に直ぐに戦慄を感じて直ぐに再受験を思い立ち、センターも怖れなければ恐らくは再受験は可能だっただろう。センター出願は間に合っていたはずである。流石に再来年の受験では三浪ということになってしまうから、再来年に受験しようとは思わない。ペナルティーがそれほどにまでなると、いくら家が近いとか電車賃がかからないとか自分の時間ができるとか多く研究ができるとか弓道等をやっても負担が少ないとかもっとそういうのにも身を入れられるとかいっても耐えられない気がしたのだ。これも傍目からは馬鹿以外の何者でもないだろうが私はもう何も聞きたくない。

 誕生日祝いとして食事に連れて行ってもらった。そこの料理はとても美味しかった。兄とその彼女――だと私は思っているのだが――にも同席してもらった。

 私がアルバイトで通っている会社はとてもアットホームでいい会社なのだが、或る面では社員さんの事情がなかなか厳しい状態にあることに気が付いた。MOさんは奥さんの事があるし、MAさんはそろそろ休まないとどうかしてしまうのではないかというくらい働き通しでろくに寝てさえいない。
 私は、アルバイトとしては意外な能力を持っているものとして気に入って頂いており、当初の仕事内容とは全然異なる仕事もさせてもらえるようにもなった。もちろんそちらの方がより高度な内容で、私にとっては非常に勉強になるものだ。これだけでも十分過ぎる程、私のバイト探しの当初の目標は達成出来ている。
 11/12は本当に、Javaコーディングをして自分でバグの修正をしてみないかという提案が出た。私は喜び、やってみたいと応えた。
 社長さんにも良く見てもらえていて、そういうのが本当に好きそうだと言ってもらえている。私にとってこれほど理想的な環境が今まであっただろうか。これだけでも、十分に私は、人生が奥ゆかしく感じられるのだ。

 11/12ある面で非常に気が合う友人がいる。同じ通信工学科の人なのだが、どうも私はある面ではその人を先生だと思っているようだ。人生の先生だ。その人は人生の何かに関して面倒くさがったり、痛烈な批判をしたりするときは特に巧い表現ができる人だ。後にわかったのだが、この人は元々そういう道を目指していた人だった。ジャーナリストに憧れていた。
 その人と共にいたこの日、私はあることをしないといけないと思った。その経緯はすでに忘れてしまったが、そう思ったことは憶えている。それは、私が何か特定のものではなく、自分の人生全体について不意に全てのやる気をなくしてしまうことがあり、その時に何故その時にそうなったかを分析して記録に残そうというものだ。そして可能であればそれらの記録の共通点を探し出し、その考えに至るのを事前に阻止したい。そもそも私がブログにブログとしてではなく日記として載せている記録には同じような意味があったのだが、改めて自分にとってのその必要性を確認した。そして私のある面での技術の若干の向上により、その作業は一切の私の時間を削らない。そして私の生き方を変えるものになるだろう。独走の危険こそあれ、今まで記録を書いてきてある程度反省でき、特に問題も無かった私ならば大丈夫だろう。
 受験生時代に記録を絶った件に関しては、今の私は失敗だったと思っている。不安定な時こそ、より長い記録を書いて整理した方がまだよかったであろう。そう思ったのは実はそう最近でもない。受験に失敗する少し前くらいからそう思っていた。そして合宿後に一度記録を絶った件についても分析の余地がある。私は精神的に不安定になると記録を絶ちやすいというところまではいつも気付いていた。

 私は自分が遅すぎることを知った。これで何度目だろうか。

 大丈夫かも知れない、と考える度合はどの程度が適当だろうか。

 ここまで書き綴ったものの、結局私には纏める時間さえ満足に確保できなかった。それに記録やメモそのものがこのままでは追いつかなくなってしまうため、上記までで一度書き置くことにした。そのため、今回のような、独り言に近い私の話は恐らく次回に続く。その次回というのは大分先にはなるとは思うが。
 一つだけ思ったことがある。これほど長く書くということは、誰にも読んで欲しくないのかも知れない。何故そんな奇怪なことをするのか、私にも良くわからない。
 あともう一つ。私は絶望絶望と言っているうちにそれが何なのかわからなくなってきたのかも知れない。本当はこういう解決方法は嫌いだが、もしそのまま何の問題もなく転科も自身の課題も気力の低下も乗り越えられるなら、それでも良いのかも知れないとも私にも思えるようになってきた。
 私は私が何を言いたいのかはご覧の通りあまり良くわかっていない。転科のこともあり、そろそろ論理の整理を始めなければならないため、こんなとりつく島もない記録はここで一旦断ち切るべきではないかとも思った。

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